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洋々LABO > 大学別情報 > 慶應義塾大学 > ホリエッティの「三大陸周遊記」「カテゴリー」と、ものの本質

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「カテゴリーに分類する」という表現は、日本語のなかに市民権を得て久しい。では、「カテゴリー」とは何であろうか。「項目」くらいの意味で押えておけばよいのか。

じつは、この語の現代的意味を確立した人物ははっきりしている。それは、紀元前4世紀の哲学者アリストテレスである。日本語には「範疇」(「範畴」という字も使われる)と訳されてきたが、漢字がむずかしいこともおそらく手伝って、最近は「カテゴリー」と片仮名書きされる方が主流であろう。

欧米語もギリシア語「カテーゴリアー」をそのまま音写して日常語として使用している。この古典ギリシア語名詞の元には「カテーゴレオー」という動詞があって、本来「誰それを弾劾する」という意味である。アリストテレスは、その否定的意味を骨抜きにして、「何かについて(カタという前置詞前綴りの意味)何かを述語づける(アゴレウオー)」という中立した意味へと昇華させたのである。

 
「AについてBを述語づける」からには、AB二項が必要である。Aは主語であり、Bが述語となる。「カテゴリー」とはAを説明するための、その述語Bのさまざまなタイプである。つまり、「述語」と一口に言っても、等し並に扱うことはできない。

主語を「石原さとみ」とすれば、「女優である」は彼女の<実体>を表現し、「可愛い」は<性質>を、「157cmである」は<分量>を、「兄一人もつ妹である」は<関係>を、「1986年生れである」は<時間>を、「東京出身である」は<空間>を、「ロケ現場で座っている」は<状態>を、「パパラッチに写真を撮られている」は<受動>を、「色紙にサインしている」は<能動>を、「ブルガリの新作を身に着けている」は<所有>を表している。

 
これら<実体><性質><分量><関係><時間><空間><能動><受動><状態><所有>の10のカテゴリーがアリストテレスに淵源するものとして有名になったが、かれ本人は、『範疇論』と『トピカ』という著作の2箇所でしか10個全部を枚挙していないので、覚えやすくて著名となった10という数字は、意味がないのだと推測される。

じっさい、<状態><所有>のカテゴリーはめったに出てこない。また後代の批判もかまびすしく、<関係>というカテゴリーに他のものを包含させたり、新たに<運動>というカテゴリーを加えたりしては、という提案を紀元後3世紀の哲学者プロティノスなどは行っている。

 
 
では、ご本尊のアリストテレスにとっては、何が重要であったのか。それは<実体>範疇と他の付帯性範疇との区別にある。<実体>範疇のみが、ものの本質を指し示すからである。

いくら「小雪は色白である」と<性質>を述べても、「長嶋茂雄の息子である」と<関係>を述べても、話題の主の本質を開示しはしない。「元野球選手である」「バラエティー番組の常連である」という記述は、現代人には本質開示と受け取られかねないが、アリストテレスにとっては、「人間」こそ小雪や長嶋一茂の本質を表示する。小雪は芸能界を一歩出たプライヴェートで3人の子の母の顔もあり、表向きの顔は演技に過ぎないとも言えるだろう。

 
しかし、次に問題となるのは、「人間」は一人だけに適合するのではなく、松本潤にも錦戸亮にも、綾瀬はるかにも深田恭子にも妥当してしまうということだろう。すると、「人間」では個人特有の本質を十全に表現するものとは言えないのではないか。

その思考を徹底させた典型は、中世哲学の核心トマス・アクィナスの少し後に出たドゥンス・スコトゥスである。スコトゥスはものの本質は「人間」「野兎」のような普遍ではなく、「これ性」(haecceitas)であるとした。人間として差異はなくとも、新木優子のこれ性は、武井咲のこれ性とは当然、異なる。

 
だが、アリストテレスも普遍人間を実体としたわけではない。生物種としての人間は、個々の人間に受肉される必要がある。そこで、石原さとみの本質は、「まさにこの人間」(this very human being)と表現に工夫を施して、初めて開示されることになる。つまり、「人間」という表現に纏綿する普遍性を遮断して、個別へと転換する言語上の苦肉の策を弄するのである。

そうして得られた普遍にして個である存在者「まさにこの人間」は、しかし、それ以上、本質記述されることを許さない。われわれは、同族の人間として以外、もはやその奥底を測り知れない不気味な存在者の群れに囲まれていることになる。個性がないというのではない。ただ、個性は種として人間に優先権を譲るのだ。

 
「人間は人間を産む」というアリストテレスの有名なフレーズがある。長嶋茂雄は人間は産んだが、茂雄性は産み伝えることはできなかった、と言えるかもしれない。貴乃花も人間は産んだが、貴乃花性を子孫に伝承できたとは言えないのではないか。個として永遠性に参与できない人間は、種の保存というかたちで永遠性に与ることを目差す。

 
近代人は個の埋没というこの図柄には居心地が悪いであろう。いや、アリストテレスにおいてさえ、個々の人間には各々の個体性の完全なる発露を通じ、永遠性に触れる事態も認められている。それが、「エネルゲイア」(完全現実態)の発想へと展開してゆくのである。

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