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洋々LABO > 洋々コラム > ホリエッティの「三大陸周遊記」 チョーむかつく神

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 「神とはなにか」と尋ねられたら、どんな答えが返ってくるだろうか。「ヤハウェ、イエス、アッラー、シヴァ、アポロン、ゼウス、天照大神」など固有名詞を挙げても埒が開かないのは当然である。ここで問われているのは神の定義なのだから。

 「不治の病など苦しいときに縋るもの」「漠然と追い求めているもの」「初詣、合格祈願で、なんとなく前提にしているもの」という生活に密着した正直な答えをする人もいれば、「宇宙の創造主」「全知全能なるもの」「歴史を導く支配者」「人間に賞罰を与える裁き手」「時空に納まらないもの」など、もっと理論的な答えをする者もいるだろう。こういうとき、「人間」の定義と同様、国語辞典を紐解いても、得心の行く定義など見つからないものである。

 中世哲学には、ある程度確立した「神を語る道」という手立てがある。まず、「神とは美である、善である、存在である・・・」と述語に神に相応しいと思われる特性を措定していく「肯定の道」(via positiva)がある。しかし、もちろん神はわれわれが周囲に見聞する美でも善でも存在でもないから、「神は美でない、善でない、存在でない・・・」と主語からこれらの性格を除去していく「否定の道」(via negativa)の方が正鵠を射ているのではないか。6世紀初頭の擬ディオニュシウス・アレオパギタは、後代に多大な影響を及ぼす『神秘神学』で、神の記述に際し否定は肯定より優れていると明言している。   

 城の本丸が形容しがたいときには、外堀を埋めていった方がよい。「君はどんな人、好きなの?」→「意地悪でなく、ケチでなく、人の陰口をたたかず、これこれでない人」と範囲を狭めていくのである。しかし、隔靴掻痒の感は否めない。
 そこで次に登場するのが、卓越の道(via eminentiae)ないし超越の道(via transcendentiae)と言われる手法である。すなわち、「神は卓越した美、卓越した善、卓越した存在である・・・」ないし「神は超美、超善、超存在である・・・」のごとくにである。結局、これはテーゼ(肯定神学)からアンチテーゼ(否定神学)へ転じ、再度、高次の肯定ジンテーゼ(超越神学)に戻るという弁証法的運動を経る、肯定の道と否定の道の撚り合わせに他ならない。「彼は人間である」から、「並の人間にあらず」、そして「スーパーマン、ウルトラマンである」に転ずるがごとしである。「スーパー」も「ウルトラ」もラテン語で、「超」を意味する。
 いや、なんのことはない。「あのセンコーむかつく」→「むかつくなんてもんじゃないわ」→「チョーむかつく」という、女子高生の車内の会話と同じ論理展開なのである。超越の道をさらに否定することも可能である。「神は超美ですらない」「あのセンコー超超超むかつくー。」しかし、これ以上、否定や「超」を重ねても、言葉は空転するばかりで虚しい。

 そこで、別の道を探ると、「原因性の道」(via causalitatis)というのに行き当たる。「神は美の原因である、善を産み出したものである、美の創造主である」と述べるこの手法は、原因は結果より、産み出すものは産み出されるものより優れているという前提を伴って、詰まるところ、先の超越の道と同じことになる。美を産み出すものは、産み出された美より優れた美、卓越した美、超美を保有している。原監督の頭にある「チームワーク」像は、現実に巨人軍の選手に体現したチームワークより緊密なはずだからである。

 ただし、美を産み出した美の原因には、産出しない自由もあるはずで、美を産み出すことすらない美の本体が、美の現象から逆算できるかもしれない。存在を産出した存在の創造主には、創造しない自由もあったはずで、存在を齎さない存在の本体が仮設されるかもしれないのである。このような被造界と没交渉なものは、もはやXとするしかないのだろうか。言表の無能さをそのまま結晶化するかのように、4世紀初頭のイアンブリコス、6世紀初頭のダマスキオスは、それを「語りえざるもの」と表現した。「神はまさにそれであるものである」という自己同一性言明に行き着くこともある。これは、あたかも「彼女は彼女だよ」「俺は俺だ」という言い廻しに似て、一切の性格づけを拒否する宣言であろう。 

 ならば、相手を知るには理論を放棄して、対象と一つになるしかないのか。深紅の薔薇の美しさ、サヴァンナの豹の美々しさを真に味わうには、主観客観の対立図式を乗り越え、対象に没入する画家のごとき心構えというわけだ。私が豹になってしまう。<私が豹なのか、豹が私なのか分からない>という境位を西洋神秘哲学では「合一」(unio mystica)と名づける。そこで語られる酔っ払いのような口走りを、イスラーム神秘主義では「酔言」(シャタハート)という。

 しかし、不立文字や譬喩は哲学ではない。合一の一歩手前で言葉を尽くすのが哲学である。例えば、合一を実現するためになすべき「精神一到」、「一切放下(Gelassenheit)」のような実践へいざなう操作子を神名とする方途も存在する。あるいは、「述語なき主語」「属性なき基体」と名づけ、充溢の極である砂漠というか無である神をなんとか言葉に掬い挙げるのである。

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